アンパンマンの「贈与」の様相と自己犠牲
アンパンマンの贈与行為は、単なる慈善や助け合いの範疇を超え、深い象徴的意味と倫理的メッセージを内包しているように見える。その行為の具体的描写は、やなせたかし氏の思想がどのように物語に具現化されているかを明確に示しているかのようだ。
〇顔を与える行為の具体的描写と象徴的意味
アンパンマンが自らの顔を与えるところというのは、毎度おなじみのシーンなんだと思うんだが。飢えに苦しむキャラクター、なんかいっぱいいて、よくわかんないけど。調べりゃ名前ぐらいは分かるが、ここで列挙することもあるまい。とにかくいっぱいだ。そう言うキャラクターたちに、アンパンマンの顔が分け与えられる。顔の一部を与えられたアンパンマンは、そのたびに力が失われ、ふらふらになったり、飛べなくなったりする。この弱体化は、自己犠牲が伴う痛みを視覚的に表現しているということだ。
でも、アンパンマンの物語はここで終わらない。ジャムおじさんやバタコさん(これくらいは分かる)、時には他のキャラクターによって新しい顔が届けられ、交換されることで、アンパンマンは再び「元気百倍!」となり、力が回復する。この一連のプロセスは、単なる食べ物の提供ではなく、「自己犠牲」「助け合い」「無償の愛」の象徴として描かれている。自分の身を削ってでも他者を助けるという、揺るぎない正義の形を示しているというわけだ。
この顔を与える行為と、それに続く再生のサイクルは、単なる慈善行為を、自己を空にし、共同体の力によって再び満たされるという、深く儀式的なプロセスへと昇華させている。アンパンマンが力を失い、共同体の助けによって回復するという描写は、真の自己犠牲が一方的な消耗ではなく、共同体による支えと、行為そのものが持つ内的な充足感によって持続可能であることを示唆している。アンパンマンは孤立した超人ではなく、彼が守る共同体によってもまた支えられているのである。この循環的な再生は、アンパンマンの贈与が、物理的には極端でありながらも、病的な意味での「過剰」ではなく、むしろ持続可能な倫理的実践であることを示唆する重要な要素だ。
〇「傷つくことなしに正義は行えない」という思想の具現化
やなせたかし氏は、「本当の正義というものは、決して格好のいいもんじゃないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」と述べている。アンパンマンが顔をちぎって与える行為は、まさにこの「捨身、献身の心なくしては正義は行えません」という思想を体現しているわけだ。アンパンマンは、スーパーマンのような華やかなヒーロー像とは一線を画し、「アンパンチ以外に必殺技は持たず、水に濡れたり、カビが生えるだけでも力が出なくなるヨワヨワヒーロー」として描かれている。
この「ヨワヨワヒーロー」としての描写は、従来のヒーロー像が強調する無敵で圧倒的な力、華々しい外見とは対照的だ 。アンパンマンの弱さは、彼が自己犠牲的な存在であることと不可分に結びついており、脆弱性そのものを美徳へと昇華させている。真の正義は、支配や容易な勝利から生まれるのではなく、共感、困窮する人々と共に苦しむ意志、そして地味で目立たない献身から生まれるというメッセージを伝えている。やなせは、戦争を通じて、力によって振りかざされる「正義」がいかに恣意的で破壊的であるかを痛感したのだろう。アンパンマンの弱さは、そのような「力による正義」への批判であり、正義が物理的な力ではなく、「愛と勇気」という内的な道徳的資質から生まれることを示している 。この視点は、真の英雄性が、無敵であることや華やかであることではなく、他者のために自らを脆弱にすることにあるという、英雄像の根本的な再定義を提示している。アンパンマンの贈与は、その物理的な「過剰性」が、この再定義された、人間中心的な正義の必要かつ深遠な表現であることを示している。
アンパンマンの顔を作り直すジャムおじさんは、命を補給する存在として神的役割を担う。ここに、一種の神話構造や、管理された循環系としての社会秩序が内包されているともいえる。
〇『フランケンシュタイン』や『青い鳥』など、創作の源泉に見る贈与の哲学
やなせたかしは、童話版アンパンマンの着想源がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』であることを明言している 。特にジェイムズ・ホエール監督の映画版に衝撃を受け、「パンが生命を持つ」というモチーフを得たらしい 。
童話版アンパンマンは、『フランケンシュタイン』の怪物と多くの点で共通性を持つ。両者は「外見の親近性」(醜さや不格好さ)を持ち、子どもとの接触において罵倒され、外見への誹謗・中傷に晒される 。また、善意が報われず、最終的には結末の曖昧さも共通している 。でも、醜い外見ゆえに拒絶され、悪の道に進む怪物に対し、アンパンマンは外見を気にせず人々を助け、罵られても人類への愛を失わないのは対照的だ 。
この『フランケンシュタイン』の影響は、アンパンマンの贈与の哲学に深みを与えている。アンパンマンは、フランケンシュタインの怪物と同様に、創造された存在だが、その生来の善意が、その異質な性質や外見のためにしばしば理解されず、拒絶される。それでも、彼はその拒絶にもかかわらず贈与を続ける。この行為は、無条件の愛と自己犠牲の力強い肯定であり、外見で判断し、真の善意を見過ごしがちな世界に対するメッセージとなる。
さらに、メーテルリンクの『青い鳥』に登場する「パンの妖精」のイメージも、アンパンマンに付与されたらしい 13。『青い鳥』が幸福の探求と、身近なものの中に幸福を見出すというテーマを持つことを踏まえると、アンパンマンの「パン」という日常的な存在が、最も根源的な幸福(飢えの解消)をもたらすという構図は、この影響を強く受けていると考えられる。朝ドラが実話にどれだけ則しているか分らんが、パン、アンパンは、やなせ氏にとって少年の時から大事なものであったようだ。これらの文学的源泉は、アンパンマンの贈与行為が、単なる物語上の設定を超え、人間存在、社会との関係性、そして真の幸福とは何かという普遍的な問いと深く結びついていることを表している。