2025年6月25日水曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義7 雑記1 その頃仮面ライダーは?


8813 リアルタッチアンパンマン


  以上のようにアンパンマンを掘っていくと、ごてごて装備がだんだん重ったるしくなる今日びの仮面ライダーってどうなの? って気がしてくる。決して、仮面ライダーがよくないなどとは言えないが、しかし、まぁ、なんて言うの? 大変だな、お気の毒、と言いたくなってくる。贈与の過剰性とある種パラレルな構造を持っているようにも思えてしまうのだ。

 仮面ライダーだって、シンプルな正義の体現者として描かれていた。初代仮面ライダーやブラック、RXなどは「仮面を被った孤高の戦士」であり、身体能力や技、バイクなど数点の要素に集約されていた。ところが平成以降、特に『龍騎』以降になると、武装・フォーム・強化パーツの増加によって、視覚的にも物語的にも「装備の贈与」が積み重なっていく。 フォームチェンジが10種類以上あったり、アイテムが100種類近くあったり、さらなる強化形態(最強フォーム、超最強フォーム)が複数用意されていたりと。まぁ、おもちゃを売らんかな、なんだけど、全部揃えるとか、ちびっこのお父さんお母さんには無理でしょ。これらは視聴者に「サービス」されている贈与であるのだろうが。疲れません?
 主人公がどういうやつか見えにくくなるし、フォーム切り替えに意味あるのってなる。敵も敵でにごてごて化し、戦いの構図が見えなくなってるし、どうなんだろ、視聴者の没入が阻害さない?

 この「ごてごての過剰」は、まさに過剰な贈与によって本来の倫理性や物語の強度が鈍っていくことに近いものがある。

 贈与というものは、本来「関係性」や「他者への開かれ」といった倫理的契機を帯びているはずだ。しかし、それが過剰化すると、ジャン=リュック・マリオンの言ってるように「可視性に取り込まれた与え」は贈与ではなくなる状態に陥る感じがしてしまう。
 同じように、仮面ライダーにおけるごてごて装備も、「力を得ること」「人々を救うこと」という物語的必然性ではなく、単に「スペックを上げる」「おもちゃの新商品を出す」ためのノイズになってしまえば、それはもはや子供の時にあこがれた「変身」ではなく、ただの「装着」に堕してしまう。
 アンパンマンは逆に、最後まで装備が増えないキャラクターだ。彼の贈与は顔をちぎるという自己喪失的行為に集約されており、アイテム化・商品化されづらい。その意味で、彼は「贈与の原点」に踏みとどまり続けているとも言える。

 「なんでそうなるの?!」って、テレビ番組あったな子供の時。欽ちゃんが司会してたやつ。なぜそうなるか、だ。

 想像に難くない、商業的圧力、つまり新フォームは新玩具を産みそれを親に買わせる、という、ま、言ってみれば大人の事情。でも、買いそろえるなんて親には無理で、実際は「大きなお友達」が買っているんだろう。 とにかく、視覚的にでも、新奇なものを出して次へとつなぐアピールをしなくちゃいけない。フォームが物語と有機的に結びつかないまま追加されて、物語の希薄化してしまうわけだ。
 つまり、「ごてごてライダー」とは、「贈与が制度化し、循環せず、重力を持ち始めた結果」でもある。これはある意味、制度化された愛(≒マーケティング)が個人の倫理的応答性を殺してしまう、という贈与論の応用形にも見えてしまうわけだ。
 まぁ、ね、仮面ライダーだけの話じゃない。今日びのウルトラマンだって、なんかすごいことなってるしな。 ガンダムは、まぁ、あれはああいう作品だ。ガンプラにしてしまうと無限のバリエーションがあったりしても、いちいちそれらには意味付けは一応されている。そう言う作品文化であるし、もはやお子様向けとはいいがたいものになってるし、いいや。 あぁ、戦隊モノな。オレは一番最初のゴレンジャーもろくに視なかったけどな。
 彼らって、は明らかに「重たく」なってきているよね。背中には装備、腰にはベルト、肩にはキャノン砲、顔には光るフェイスシールド。いつからヒーローは、ここまで“ごてごて”と装備を身にまとうようになったのか。彼らは何をそんなに「与えよう」としているものやら。

 贈与論(モース、デリダ、マリオン等)を手がかりに、アンパンマンと仮面ライダーを軸としながら、「ヒーローの装備進化」がいかにして倫理的意味をなくして、過剰化し、結果的に“救えなくなる”事態に至るかを考えてみる。
 アンパンマンは、贈与論的にはあれは異常な存在だわ、となる。彼は敵を殴るよりも早く、自らの顔(=存在)を他者にちぎって与える。モース的にいえばこれは「返礼を前提としない贈与」であり、デリダに言わせれば「純粋贈与」に限りなく近い行為だ。
 しかし、この贈与は一見して「簡素」でありながら、「顔」という最も個人的かつ存在的なパーツを切り取るという点で、最も重い贈与でもある。ここに装飾やアイテムは介在しない。ただし、「愛」だけが根拠ってやつ。彼はベルトも、カードも、フォームチェンジも持たない。 ただ顔を差し出す。顔が乾いたら、また焼きなおされる。

  ――これは贈与なんだろうか、反復的消費なんだろうか?

 仮面ライダーシリーズにおいては、昭和の時はそうでもなかった。平成期になり、クウガやアギトあたりならまだしも、龍騎あたりからとりわけ「装備=贈与」の商業的インフレが顕著になる。
 例を挙げようと思ったがやめた。めんどくさい。それ位多い。
 これらの装備は、視聴者=子供たちに対する「与える喜び」を増やすように見える。だが、贈与論的に見ればこれは「見返り(売上)」を前提とした制度的贈与であり、デリダが切り捨てた「純粋性」とは無縁なものだ。まぁ、ね、お子様向け番組のデリダを持ち出して来ても何だが、正義の味方としての倫理ってどっか行っちゃったよね、という話。「与えよ、されど回収せよ。 ベルトは光り、音が鳴る。財布も鳴く。」ってね。

 この「贈与の見返り」としての収益構造は、やがてヒーローの存在そのものを「装備の台座」に変質させる。

 ジャン=リュック・マリオンの贈与論が示唆に富む。
  彼は、真の贈与とは「呼びかけに対する応答」であり、自己意識を超えた他者との関係性から生まれると言っている。 アンパンマンは、まさに「飢えた子どもの泣き声」に応じて反射的に顔を差し出す。彼には選択がない。だがその行為は、倫理的な必然性として高い純度を持つ。 一方、仮面ライダーは、新フォームがなければ勝てないし、強化装備がなければ話が進まない。ぶっちゃけ、新商品が出ないと「次の話」が用意されない。
 これは倫理ではなく構造の応答である。呼びかけは玩具会社から来ているのだ。「正義の味方」は、いまや“物流の味方”へと変貌したわけだ。 変身は、倫理的決断ではなく納品スケジュールだ。

 アンパンマンの贈与は、物質的には軽いが、存在論的には重い。
 仮面ライダーの贈与は、物質的には重く、存在論的には軽い。

 もうね、お子様たちが、本当にそういうものを欲してるのかどうか? まぁ、追求しないのが、リアルでのみんなの幸せにつながるのだからいいのか。そのへんはどうなんだろう?

 「アンパンマン=倫理的贈与」と「仮面ライダー=制度的/商業的贈与」という対比を基盤にして、現代社会との接続点を考えてみる。 「与える側」も疲れてるんだよ、という話。

 インスタとかさ、SNSでの承認欲求、「いいね」を与え、もらうループになってるでしょ? 企業が与えるサービスの「コストパフォーマンス」競争とか、教師・医療従事者・介護職など、ケアを「与えること」が制度化され、搾取と隣り合わせになっている。報われているとはいいがたい。 仮面ライダーが装備を「与えすぎて」身動きが取れなくなっていくように、現代の我々もまた「与えることを求められすぎて」疲弊している。
  本来ならば自由意志に基づく贈与が、制度やアルゴリズムに組み込まれた強制的な応答へと変質している。



 「贈与の純粋性」なにそれ?美味いの?って
 サブスクリプション、投げ銭によるサービスの「贈与のような消費」とか、「自己犠牲的」な行動すら、評価経済の中で記録・消費されていくこととか、ボランティアや善行も「映え」「ポイント化」されることとか、ね。
 仮面ライダーが新フォームを披露するたびに「変身の純粋さ」が薄れていくように、我々の行為もまた、何らかのスコアやカウント、見返りを期待された行動になってしまっていないか? アンパンマンのような、「見返りなしで、ただ差し出す」という贈与が、もはや機能しにくい。

 すべてが「正しさ」と「責任」でがんじがらめになる中、疲弊と分断が進み、自己実現もケアも、常に「重さ」や「正しさ」の言説に縛られてしまい、「何かを与えねば」「期待に応えねば」という焦燥感だけが募るとかね。

 いっそ、全部ぶん投げてさ、好きなだけ顔、持ってけ~、って時々思ったりしません?


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