2025年6月27日金曜日

アンパンマンの贈与倫理──やなせたかしの戦争体験と「正義」の再定義10 雑記4 狼の皮をかぶった子羊の末路、その頃ガンダムは

 


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 ある年齢以上の、日本の”男の子”なら聞いたことがあるフレーズ「羊の皮をかぶった狼」というのは、実は画像のKPGC10ではなく、その一つ前の型、特にその中のホットモデル、S54Bスカイラインに与えられた二つ名だった。見た目、普通の乗用車で、何とかポルシェを凌駕してやろうと、4気筒エンジンが収まっていたところに、無理やり6気筒を押し込んで作った、なんかまぁ、無茶なクルマだったが、それのおかげで、長らく「スカイライン」と言う名前は日産と言う会社の財産にもなったし、ある意味呪いにもなった。
 そこで終われば、この項での話は、かっこいいクルマの話で終わるのだが、狼になれなかった、でも羊にも戻れない、かつては幸せな子羊だったものの物語のアニメが本題である。原作はやなせたかし氏だった。

 「チリンの鈴の音」。オレの下手な説明よりは、Wikiでも見ていただいた方が理解が早いし、動画も上がっている。30分ほどの短編アニメだ。
 何の情緒も交えずに書くならば、母親に愛されて幸せだった子羊が狼に母親を殺されて、狼にかたき討ちをしようとするが、勿論敵うはずもなく、狼と一緒に行動することになった。成長し異形の生き物になったかつての子羊は、再び羊の群れを襲おうとしていた狼を倒すが、あまりの変わりように羊の群れには帰れず、ひとり、いや一匹、姿を消す、と言う話。

 またもや!、子供向けのふりをしていて、到底子供には理解が難しいテーマの作品である。

 その辺の、そしてオレの幼いころのような子供なら、どう思うだろう? 狼はワルモノか? かつての子羊、チリンを受け入れない羊の群れが悪いのか? そもそも、チリンが母親のかたき討ちをしようとしたことが間違っているのか?
 争うこと、戦うことは、本当に悪なのだろうか? ここで、やなせ氏が本当に反戦を第一のテーマとしていたのか?と、いう疑問が出てくる。
 狼は、羊を襲うものだ。生きるために。羊の群れがチリンを受け入れなかったのは、個々としては弱い羊の生存戦略だ。親を殺されて敵討ちを志すチリンを止められたか? 皆、それぞれの役目を全うしての、結果としての悲劇だ。
 誰が悪い、と言う話ではないのかもしれない。存在を全うすると言うことに良い悪いもない。例えば、一つやなせ氏のテーマに、「正義はひっくり返る」というものがあった。みんな精一杯なのだ。

 わからない。ただ考え続ける他にやり様がないように思える。ただ、チリンも敵を討たれた老狼も、羊の群れも、愛さなくてはいけないのかもしれないとは思った。
 たとえば、爆弾が落とされた街の、焼け跡で泣き叫ぶ子どもに、「それでも人間には理性がある」などと語ってみても、たぶんその言葉は何の意味もなさない。爆発の音、焼け爛れた匂い、誰も助けてくれなかったという絶望の方が、ずっと雄弁だ。
 「戦争は悪い」と言ってしまうことの簡単さと、その言葉が無力である場面の多さに、人は遂に諦観を手に入れる。だからなのだろう、「わかりやすい敵」を設定して、それを倒すことで終わる物語が、もうそれしかない、と言わんばかりに幅を利かせる。だが、本当はそんなに簡単ではないだろうと。
 狼は悪くない。羊も悪くない。チリンも間違っていない。誰も責められない、という構造そのものが、最も苦しい。では、どうやっていさめるか? どうやって止めるか? それは「問い」を差し出すことしかできないのだと思う。

 ——お前は、どう生きたいのか?
 ——なぜ、怒りを抱えたのか?
 ——怒りを超えて、どこへ行こうとしているのか?

 そうした問いを、静かに、鈴の音のように差し出すこと。それが、やなせたかし氏が『チリンの鈴』に託したものだったのではないかと思う。そして、それはきっと戦争だけでなく、日々の争いや断絶、誤解や怒りや悲しみにも、同じように響く。チリンは遠い山の中に消えたが、その鈴の音は、今日もどこかで、誰かの心に残っている。言葉にならないものがあると知った上で、それでも言葉にする。


 思えば冨野由悠季氏はこういうことをやりたかったのではないかと思わないでもない。確かに『機動戦士ガンダム』でやろうとしたのは、「戦争を描くことで、戦争を否定する」ことだった。でも、やっぱりモビルスーツはかっこよすぎた。ザクもガンダムも、あまりに造形が魅力的で、MS戦の演出が緻密で、キャラクターたちもみんな強くて傷ついて美しかった。つまり、反戦メッセージの上に、強烈なエンタメが乗ってしまった。
 これは、別に失敗ではなくて、むしろ「だから届いた」とも言える。が、結果的にあの世界へのあこがれは、弱きものへの視線を大きく削ったものとして現れた気がする。冨野氏自身もそのことをよくわかっていて、だからこそ後年の作品ではどんどん“わかりにくく”し、“気持ちよくなりすぎない”ようにしていったように思う。そのたびに「ついてこれない観客」と、逆にかじりついてくる妙に拗れたガノタの出現。もちろん、普通にファン、と言う人が多数ではあろうが。表現者としての冨野氏に葛藤があったのではあるまいか?

 やなせたかし氏は、自身の作品の主人公たちに「かっこよさ」を一切与えなかった。チリンは強くなるけれど、美しくはならない。戦っても、英雄にはならない。ラストに至っては、もはや“物語”としてのカタルシスすら拒絶する。
 そして、観客に何もご褒美を与えない、苦い寓話があるのみ。

 『ガンダム』は、どこかで「少年の夢」を背負ってしまった。ロボットアニメの文法とスポンサーの都合と、なにより当時の視聴者の熱狂の中で、「チリンの鈴」のような冷徹な問いの純度を保つことは、難しかったのかもしれない。
 それでも、冨野氏は、ずっと問い続けたのかもしれない。「人はなぜ争うのか?」「なぜ分かり合えないのか?」「正しさとは何か?」「ニュータイプとは何か?」

 「チリンの鈴の音」と相似形じゃないかと、気がついた。『ガンダム』は**“チリンが人間だったら”の物語**なのかもしれぬ。戦争というシステムの中で、愛を失い、力を求め、正しさに迷い、どこにも帰れなくなる人々の群像劇。チリンの鈴が、ガンダム世界では無数のキャラクターたちの“心の声”として響いていたのかもしれぬ。
 ガンダムは「かっこよすぎた」。でも、それによって多くの人に届いた。「本当は何を描きたかったんだろう?」と立ち止まる者も、今なお絶えない。だから、エンタメ、経済的要請に負けたようで、実は勝っているのかもしれない。冨野氏が撒いた問いの種は、まだ終わっていない。


 「アンマンパンマーチ」の歌詞、

 なんのために生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのは いやだ!

 こんな、異常なほどストレートな実存的問いかけを、毎週テレビのオープニングで投げかけてくるって、やなせたかし氏、正気じゃねぇ(褒めてます)。普通なら「がんばれアンパンマン!」とか「アンパンチでバイバイキン!」的な明るさを全面に出すはずなのに、真っ先に生の根源的意味を問う。この姿勢、やなせ氏の一貫したテーマ——「正義とは?」「愛とは?」「善悪とは?」——を、3〜5歳の子どもに全力でぶつけてる。

 「こたえられないなんて/そんなのはいやだ!」
 ここなど、完全に自分自身への宣言だろう。大人がよく言う「まあ、生きてればいろいろあるさ」とか「答えなんてなくていいんだよ」っていう“逃げ”を、幼い子どもが拒否してる。それも、歌詞として叫んでる。 大人の諦めを断固として拒否する、魂のスタートライン。
 やなせ氏自身が何度も語っているのは、「本当に苦しんでいるのは子どもだ」「大人は、自分のことは自分で処理できるが、子どもはできない」という視点だった。だからこそ、子ども向け作品ほど**「本物の問い」を投げるべき**だと彼は考えていた。

 絵はゆるいのに、断じて子供だましは作らなかった。
「アンパンマン」は、見た目はパンで、敵は菌で、戦い方もユルい。 でもその根底には、「どう生きるか?」「どうやって誰かを助けるか?」という、実はヒーロー論の最前線が通っている。

 冗談でなく、これはもう戦後の精神史に刻まれるべき詩ではあるまいか?大人が疲れきった時代に、子どもたちにこう問いかける。 「生きる意味を探していいんだよ」「答えを持ちたいと思っていいんだよ」その姿勢は、戦争で希望を失った時代の先に立って、「それでも生きていく」ための哲学だった。

 アンパンマンは、ただの顔を分け与えるヒーローじゃない。 問いを投げ続ける、希望の残響だ。 ゆるい絵柄で、逃げ場のない本質を描くという、ある種の詐欺的な、しかし誠実極まりない手法。 単純な線に柔らかい色彩、どこからどう見ても幼児向け」の絵柄だった。しかし、やってることはこうだ。

 食べ物を与えるために自分の顔をちぎる。
 空腹と孤独と寒さに泣く者のそばに現れ、無言で助ける。
 戦うことよりも、立ち続けることに意味を見出す

 アンパンマンって、「勝つ」ことより「支える」ことに重点を置いている存在だ。ヒーローなのに、戦闘よりもケアが本分。
 つまり、見た目が子ども向けなのは、重いものを背負わせるための戦略だったのではあるまいか?

 戦中派であり、弟を戦争で亡くし、戦後は飢えと屈辱と無名の中で生きてきたやなせ氏にとって、「生きる意味」は私たちが思う以上に重たいテーマだったのかもしれない。
 そしてそれを、ただの道徳やお説教ではなく、わらべうたのように見せかけて叩き込んできた。 子ども向け作品で、「哲学」が入り込む余地があるという事実を、最もよく体現したのが『アンパンマン』なのだろう。 アンパンマンのあの「顔を与える」という行為は、単なるヒーロー行為ではなく、自己犠牲・再生・共同体の維持といった概念をまるごと内包している。それを、「パンが飛んできて助けてくれる」っていうシンプルな形で伝えてくる。すさまじい表現力だ。 だから逆説的に、「チリンの鈴」のようなストレートな痛みに比べて、 アンパンマンはもっと遅れて効いてくる。大人になってから「あれってそういう話だったのか」と気づいたとき、子どものころ受け取っていたものの深さに、ようやく追いつく。


 などと、尤もらしく書いているが、子供の時は、遂にアンパンマンと言うものがこの世にあることを一切知らなかった。もし、子供の時に観ていたらどんな子供になってたやら。
 現代の世界の行き詰まり。ずっと、人類の文明もあと2,3世代、その後は壊滅的に衰えていく、或いは、何億年に一度かの、生態系総入れ替えがそろそろ起こるのではないか、と、何となく感じている。オレが仕舞った、次の日にそれが起こっても一向に構わないが、オレ自身、全世界の人口分の1、それに加担していることを思えば、何かせねば、何か言わねば、何か考えねば、と思った時に、今の世界の問題を「過剰」と言う言葉で言い表すならば、それならば、と、ノーム、バタイユ、ジジェクなどの「贈与」について、読んだり何なりしていた。そこにアンパンマン、今田美桜ちゃんが、思いのほかかわいかったこともあり、意識に飛び込んできたわけだ。

 しかしそれは、一見すると飛躍のようでいて、実は本質への最短距離だったのかもしれぬ。 アンパンマンは、顔をちぎって人に与える存在だ。「自己犠牲」でもなく、「見返りを求めない親切」でもない。むしろそれは、“与えずにはいられない存在”として描かれている。 ここで、ジジェクやバタイユが描いた「贈与の暴力性」や、「見返りなき贈与の構造」が思い出してしまったのも、無理からぬことであるとご理解ください。

 バタイユ:消尽(蕩尽)としての贈与。社会秩序を逸脱する、祝祭的な非合理。
 ジジェク:贈与とはしばしば暴力的で支配的ですらあり、「贈られた側」はその返礼の構造に巻き込まれる。
 ノーム(グレーバーなどのアナーキズム的贈与論):交換の前に、まず無償の行為があったという認識。


「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」ここには、経済合理性とは無関係な存在理由への問い、交換の論理では語れない、まさしく「贈与的存在論」の問いかけがこめられている。

 なんのために生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのは いやだ!

 この一節は、役に立つ/立たないの問題を超えて、与える存在であることの必然を探る問いでもある。

 子どもの時ににアンパンマンを見ていたら、たぶん「顔ちぎって与えてるヒーロー」という変な記憶で終わったかもしれない。しかし、贈与論――バタイユの蕩尽、ジジェクの「贈与の裏に潜む暴力」、ノームの「交換以前の贈与」――を通過したがために「与えることの絶対性」に反応することできた。
 アンパンマンは、自己を維持することに意味がある存在ではなく、他者のために蕩尽されることで完成するヒーローだ。これは、資本主義の“自己保存型”ヒーロー像とは真逆だ。アメリカン・ヒーローが悪を倒して自己を完成させるならば、アンパンマンは他者に自己を与え尽くして消えていく存在だ。 この「贈与→蕩尽→再生」の構造が、やなせたかしの底にあった思想であり、まさに贈与論の実践形といってもいい。


 やなせたかし氏の生涯を扱ったNHK朝ドラ『あんぱん』で描かれるのは、ヒーローを描きながら自己の貧しさ・無名・敗北・死の恐怖を抱え続けた男の人生。60を過ぎて初めて売れた、正義を疑い続けた、「アンパンマン」は戦争の痛みから生まれた、そんな男の描いたヒーローが、「顔を与える」存在であることは、偶然でも気まぐれでもないような気がする。

 チリンが「復讐によって自我を保とうとした者」なら、アンパンマンは「与えることで自己を保とうとする者」だ。そしてどちらも孤独で、でも問いを放つ存在だ。仮面ライダーやガンダムにはたどり着けなかった境地の問いがある。



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