前項では、石破政権に対して一定の意義を認めたうえで、それでもなお「次」が見えない日本政治の現在地について論じてきた。では、「ゼロから作り直す」ためには何が必要なのか。以下に、5つの観点からそのヒントを探っていく。
1. 制度の「二重化」を見直す:明治国家と戦後国家の混在をどうするか
日本の統治機構には、しばしば「二重構造」ともいうべき歪みが存在している。たとえば中央官僚制度は明治国家の中央集権的モデルを色濃く残しており、官僚が政策の設計と実施の大部分を担う「技官国家」としての側面を保ち続けている。一方で、選挙で選ばれる政治家たちは、戦後民主主義の民意重視、地方分権、リベラル的価値を掲げながら活動している。しかしこの二つの軸は互いに調和しておらず、しばしば制度疲労と機能不全を引き起こしてきた。
たとえば、地方自治が形式上は保障されていても、実際には財政の大部分が中央政府に依存しており、東京が地方の「首根っこ」を押さえた構図は変わらない。これは「分権」と「統制」の中間にある曖昧さを象徴している。さらに、官僚制度の強さが政治主導を阻み、政治は短命のリーダーシップの中で人気取りに終始するという悪循環がある。
日本においては、この相矛盾する要素が、しかし、表立って対立しているようには見えない。少なくとも国民には見えにくくなっている。しかしながら、特に首都圏以外の地方にいるものにとっては、法律上では認められているべき独立性が、実質あってないようなもの、と感じる場面が結構あるが、それは何より税制において強く感じてしまう。なぜ、中央からお金を引っ張ってこられる政治家が地方で重宝されるのか? 国会議員とは地方の代表ではなく国民全体の代表であるべきものであるはずだ。となれば、選挙制度などが、例えば具体的な問題にもなり得るが、
この矛盾した統治構造を脱するには、「中央集権国家なのか、地方分権国家なのか」「技官国家なのか、民意国家なのか」といった根本的な問いに対し、明確な選択をする必要がある。制度を「改革」するというより、制度の「軸」を再定義する作業だ。これは非常に骨の折れるプロセスだが、それなくして次のステージへは進めない。
2. 「政治的正当性」のリセット:誰がなぜ統治するのかを問う
戦後日本の統治体制は、GHQの占領と冷戦下の地政学的選択の中で形成された。自民党の長期政権は、経済成長を最優先に据え、「政治的無気力」すら正当化するほどの経済至上主義によって支えられてきた。だが、その正当性の根拠は、冷戦の終結、バブル崩壊、長期デフレ、社会の高齢化といった変化の中で、すでに失効しつつある。
個人的には、自民党が正の意義を持っていた時代は、バブル崩壊とともに終了したと考えている。それ以前の社会では確かに、国の経済、社会に最適化された自民党として、多少の矛盾があったとはいえ、社会全体は前を向くことが出来た。そこで頑張った社会全体への報酬がかのバブル経済であった、と、ある意味言えると思う。
生憎と、バブル経済の意味をそのように捉える向きはほぼ皆無であったし、あの時、落ち込みがあろうが、以前の継続で行けると考えた社会の成れの果てがこのざまだ。社会の根本からの構造変更はこのころから考えておくべきだった。
これは経済の話ではなく、経済本位の社会の話である。
石破茂氏が政権で打ち出そうとした、がたちまち曖昧になった「説明責任」や「政策議論」の重視は、本来ならば統治に新たな正当性を与える営為であった。しかし、それが「権力」として結実しなかったのは、統治の形式や内容以前に、「なぜ彼が、あるいは誰が統治するのか」という物語が存在しないからである。統治の正統性は、単なる手続き的な正しさ(民主的選挙、議会制)ではなく、その背後にある国民的合意や物語の力によって支えられる。
したがって、「誰が統治するか」だけではなく、「なぜその統治が正当なのか」を国民自身が納得できるような社会契約の再設計が求められる。それは単なる制度変更ではなく、憲法の前文を書き換えるレベルの、象徴的な国民的物語の再構築に他ならない。
3. 官僚制の見える化と再構築:優秀さと不透明さの共存
日本の官僚制度は、国際的に見てもきわめて優秀な部類に入る。しかしその一方で、極端な前例主義と責任回避的な文化が染みついており、現代の急速に変化する課題に対して柔軟に対応できていない。
たとえば、デジタル化が進まないのも、予算編成が硬直化しているのも、中長期の国家戦略が描けないのも、それが「誰の責任でもない」という構造に起因している。政治家と官僚の役割分担、国会審議の形式、予算の使途と執行の透明性などを一度すべて「見える化」し、責任の所在と執行の原則を明確にしなければ、どれだけ制度をいじっても「実態」は変わらない。
さらに、政策立案を行うエキスパートと、行政の執行を行うマネジメントの分離、あるいは融合のあり方についても検討が必要だ。既存の「省庁主義」「縦割り行政」を乗り越え、課題に即した「プロジェクト型行政」への転換を図ることが重要である。
4. 北欧型民主主義と台湾の実験:再設計のための他山の石
日本が制度をゼロから再設計する際に、参考となるモデルは確かに存在する。たとえばエストニアや台湾は、デジタル行政や直接民主制の要素を巧みに導入し、国家の透明性と市民参加を飛躍的に高めている。台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンが推進する「vTaiwan」プロジェクトのように、政策立案において市民の声を直接的に反映させる試みは、従来の日本にはなかった発想である。
また、ノルウェーやフィンランドといった北欧諸国では、分権型かつ合意形成型のガバナンスが実現されており、政治的リーダーシップのあり方が日本とは大きく異なる。これらの国々では、政治と行政、行政と市民の距離が近く、「共創」の思想が制度として組み込まれている。
経済規模が違うので参考にならないという声も聞く。まぁ、かつての栄光が忘れられなくて、そういってしまうのだろうが、OECDあたりが出している今現在の諸指標を思い出してみるがよい。
何より、日本がこうしたモデルを参考にすべき最大の理由は、同じ高さでとどまったままの「政高官低」と「官高政低」の無限ループを抜け出すためである。日本では政治と行政、行政と民間が常にどちらかが主導権を握る形で対立してきた。相克により状況が向上すればよかったのだが、相克ではなく脚の引っ張り合いでもしてたのか、結局毎回同じところでぐるぐるしていただけではなかったか。
現代の複雑な課題に対応するには、官民の役割を明確に再定義し、行政を「オープンなプラットフォーム」として位置づける思想が不可欠ではないだろうか?。
5. 統治以前に「文化」を再設計する:空気と責任の病理
最後に、もっとも根本的な問題に触れたい。それは「文化」である。
現代日本社会の制度不全の背景には、「空気を読む」「責任を取らない」「自分からは動かない」といった文化的傾向が横たわっている。これらは一見すると非政治的な性格を帯びているが、実は制度を腐食させる温床である。たとえば、政策決定の遅延、行政の忖度、政治家の曖昧な物言いの根底には、こうした文化的土壌がある。
したがって、「制度改革」とは別に、「文化改革」もまた必要である。市民ひとりひとりが「自分が主権者である」という感覚を持ち、それを日常的な言葉や行動に反映させること。これは法律の文言や制度設計では届かない領域だ。
この文化的転換を支えるのは、教育・メディア・地域コミュニティといった「非政治的空間」である。これらを再編成し、民主主義のインフラとして再構築することは、制度改革以上に困難であるかもしれないが、避けて通れない課題である。
制度を「ゼロから作り直す」とは、表層的な行政改革や選挙制度の変更ではなく、社会の深層にある「前提」を更新する作業であると考える。その作業は、明日の政治家だけでなく、今日の市民である私たち自身が担うべき課題でもあるのではないか?
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