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2025年6月16日月曜日

存在と鋼鉄1:ニーチェ、ハイデガー、ナチス、ポルシェの交錯点

 

8801 Typ 64

交錯

 20世紀は、「思想が現実に裏切られた世紀」でいえるのではなかろうか。そこには哲学者の夢想があり、政治の暴力があり、そして工業技術という冷たい手があった。ニーチェとハイデガーという二人の哲学者は、世界の根底にある「問い」を抱えながらも、その言葉が歴史の渦に呑み込まれる瞬間に立ち会った。そこに、ナチス・ドイツという権力構造、フェルディナンド・ポルシェという技術者の姿が絡みつく。

 ニーチェが「神の死」を宣告したとき、彼は人間が自ら価値を創造しなければならないという、厳しい自由の荒野を指し示した。それはあくまで個人の心象風景の話であったと敢えて言おう。しかしその思想は、ハイデガーの言葉を借りれば、「忘却の忘却」へと堕ちた。ナチスはその「超人」を国家の理想像にすり替え、個人の内的格闘を集団の選民思想へと変質させた。ニーチェの遺言は、おそらくは恣意的に誤読されることで、暴力の理論にすり替わった。

 ハイデガーはこの誤読を知っていた。彼自身もまた、1933年、フライブルク大学総長としてナチスに加担した。だが彼は、すぐにその「技術の支配」がもたらす本質的な危機に気づく。ハイデガーにとって、最大の敵は「技術化された世界」だった。彼が『技術への問い』で語るように、現代技術とは「存在そのものが資源(ベストアンド)として見られる世界」の到来である。

 その象徴が、ポルシェの技術であった。国民車ビートルは、「人民の幸福」の形をした国家の意志だった。戦車や軍用車両は、「存在の開け」としての人間を部品へと還元する暴力の装置だった。ポルシェは政治家でも哲学者でもない。ただ、誠実な技術者だった。しかし、ハイデガー的視座から見れば、その「誠実さ」こそが危うい。技術が目的を問わずに発展するとき、人間は手段として扱われる。

 ハイデガーは「存在の忘却」を叫んだ。人間が「もの」や「機械」や「制度」に溶けていく時代において、「私は誰か」「なぜここに在るのか」という問いそのものが失われていく。ナチスとは、そうした問いの完全な麻痺状態だった。そこでは、個人の実存は国家の論理に吸収され、技術は「問いを持たない完成物」としてのみ賞賛された。

 ポルシェの車は、よく走った。よく殺した。それは、「良き生」のために走ったわけではない。ニーチェの「生の肯定」は失われ、ハイデガーの「在ることへの驚き」は踏みにじられた。

 この四者の交錯は、一つの問いを突きつける:
 ・思想は技術とどう共存できるのか。
 ・意志はどこまで他者を傷つけずに成し得るのか。
そして、我々は「在る」ということを、本当に理解しているのか。


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